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「“拙速な9月入学導入は問題を深刻化” 日本教育学会メンバー」の記事に思う

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この記者会見の全てを把握しているわけでなく、報道機関からの限られた情報をもとに書いていることを理解いただきたい。また、報道機関において、誤認、歪曲があり、ここに書いていることについて、言及がされているのなら、お詫びしたい。

 

私の認識した記事は、以下のとおりである。(NHKのニュースから抜粋)

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学校の休校が長期化するなか、一部の知事などが9月入学を求めていることについて、子どもや保護者、教職員の不安の声に応える実効性のある対策を検討すべきであり、拙速な9月入学の導入はかえって問題を深刻化させると指摘しました。

新型コロナウイルスのさなか、その解決策として性急に実施すれば、さまざまな問題が予想され、将来的にそれらが解消されるには十数年かかるとして、多くの関係者の意見を反映し、慎重に検討すべきとしています。

日本教育学会会長の日本大学広田照幸教授は「導入については、教育の制度の実態をあまり知らない方が議論しているのではないか。財政的にも制度的に大きなきしみ、不具合が生じる。今年、来年、いずれに導入しても大きなダメージが生じる」と話していました。

東京都立大学の乾彰夫名誉教授は「教育格差の問題は9月入学では解消しない。ひとり親家庭の学習保障など、今、不安が高まっている問題に早急に対応すべきだ」と話していました。

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さてこの日本教育学会の方の発言に違和感を皆さんは感じないだろうか。

私は、大いに憤慨している。

理由は以下の3点。

① 拙速な議論に対する問題視しているが、日本教育学会は、どれだけ真剣に議論してきたのか。

 数年前、東京大学が9月入学の実施について取り組もうとした。日本教育学会は、それ以降、本当なら一大学が検討する前に、貴方たちが検討し、社会に対して提言すべきではなかったのか。

 新型コロナに伴う影響から9月入学が議論されはじめて、あわてて、9月入学の課題を言っている。日本の教育について、真摯に考えているのなら、なぜ、今まで、貴方たちは検討してこなかったのか。

 あるいは、検討の価値無しとの結論であるなら、それを説明して欲しい。もし、検討を議論をしていたとしたら、その状況を説明して欲しい。

 「拙速な」と表現をしているが、この問題について、以前から日本教育学会にて検討・議論していて、社会に対して何らかの提言をしていたなら、先生方がいう、「拙速な」な議論も始まらなかったのでは無いだろうか。

 話しは少し逸れるが、現在の企業は、「不作為責任」が問われる時代となっている。過失責任は当然問題となる。しかし、やらないこと、やらなかったことにも企業としての社会的責任が問われる時代となっているのである。

 新型コロナの危機に対して、多くの企業が本業とは関係ないがマスクを作る能力があれば作ろうとする。また、この危機に対して、各企業において社会的責任を果たそうとしている。少なくとも現在はそういう社会となっている。

 日本教育学会は、目の前に9月入学が急に話題となってしまったから、これだけの課題があるんだと言っているとしか感じられ無い。

 せめて、「数年前の東京大学の9月入学の導入時点から、私たちはこういう検討をしてきました。その検討の中で、多くの課題が見えてきていました。それをここで明示したいと思います。」という発言ならば、腑におちる。

 もし、これまで日本教育学会において、9月入学の検討をして来ていなかったとしたら、それは専門家集団としてのまさしく不作為責任と言えよう。

 

② 「教育の制度の実態をあまり知らない方が議論しているのではないか。」との発言について

 教育というものは、教育界だけの問題でなく、社会全体の問題である。教育の専門家しか議論してはいけないという様にも受け取れなくもない。専門家でないと議論に参加することも出来ないのだろうか。

 もしそうだとすると、日本の政治は政治の専門家しか議論に参加出来ないこととなる。

 この発言は、大きな問題であると思う。学者先生たちの深層心理に、「教育のことを知らない人間が何言っているのか」という意識があったとしては由々しきことである。もしそうだとしたら、教育は、個人の尊厳を重んじるという基本中の基本が欠落していることとなり、その時点でその者は教育の専門家とは言えないであろう。

 

③ 9月入学制度も方法論であること

 9月入学についての問題点を提示しているが、そもそも9月入学制度は、教育の方法論でしか無い。方法論においての問題の提示はその問題を解決することにより対応出来るのである。

 日本の教育の目指すところは、どこなのか、再度、確認をして、その実現のための最良の方法を模索することが本来の流れではないのだろうか。

 教育基本法によれば、

 「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底」

と掲げており、そして第一条に教育の目的として

教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

としている。

 その方策として、学校教育が行われているのである。

 最も効果的な学習方法は、児童・生徒1人に教諭1人が指導する方法かも知れない。しかしながら、コスト的に不可能である。コストや社会性の形成などの色々な視点から、学校教育という方法が現在採用されている。そして、時代にあわせて、教科や単位数、また、ひとクラスの定員数などが変わって来ているのである。

 現在、社会は大きく変化している。小子超高齢化社会、ITの社会への浸透、ブローバルな社会への移行、従前の区分では整理出来ない新しいモノ・コトの出現、例示すればいくらでもある。今回の新型コロナにより、オフィスで働くという当然の行為が自宅で行われている。不動産業界の区分のオフィス、住宅、商業、倉庫などの分類も意味のないものに変容していくこととなろう。学校教育の場も同様であろう。たまたま、新型コロナの影響で在宅ワークや遠隔授業などが行われているのであるが、それは、必然の流れであったのかも知れない。

 しかし、この流れは今はじまったものではない。平成期、特に後期においては大きな流れとなっていたのである。

 その中で、日本教育学会という3,000人の集団は、これからの社会の流れに対応した、新しい方法を検討して来ていたのだろうか。

 学校教育というのも方法論である。9月入学制度も同様である。児童・生徒を一同に学校に集めて、一人の教諭がまるで学級の中の王様の様に隔離された教育弊害は長年叫ばれていた。いじめの問題も解決できていない。

 勿論、現場の多くの教諭は汗と血の滲む努力をしている。

 もう一度、原点に立ち返って、教育の目的は、そのための方法としてどの様な制度が適切なのかを議論すべきであると思う。答えは一つとは限らない。個人の尊厳を重んじることにより、学校教育以外の道も用意するなど、複数の方法を用意することもいいのではないか。

 

 最後に、課題として提示された問題点は、解決できる課題であると思う。

 例えば、就学対象であるが、6年かけて順次変えていくなどの方法である。来年の9月入学の小学1年の対象者を「4月生まれから3月生まれ」から「4月生まれ〜5月生まれの14か月分の児童」とする。翌年は、「6月生まれ〜7月生まれの14か月分の児童」としていくなどである。その結果は、教育の専門家先生なら効果も理解いただけるだろう。

 

 昨日のニュースに触れて、どうも従前の制度を変えることの大変さを教育の専門家だからよりわかって、あのようなことを言わずにはいられなかったのかも知れない。しかし、変化を恐れては、得るものはない。結果、その犠牲なるのは子供たちである。