リアル店舗の「これから」を考えるうえで、「これまで」を知ることも大切ではないかと思います。
ということで、前回は三越を例に百貨店の江戸時代からの取組み・変革を書きました。
今回は、行商です。
下の商業の業態の変遷・盛衰を描きました。
左端に「行商」があります。
商業の変遷に入れるほどのもの?と思われた方もいるでしょう。
でも、「行商」って意外と大きな存在だったのですよ。
行商って?!
「行商」と言われても意味はわかるけど実際見たことない方も多いでしょうね。
でも、平成期のはじめまで東京でも行商が行われていたのですよ。
私の手元にある年季がかった国語辞典には、
「商品を持って、売り歩くこと、また、その人。」
とあります。
イメージしやすいのは、時代劇に出てくる、天秤棒を担いで野菜や魚を売り歩く姿だと思います。
(出典:国立国会図書館蔵「近世流行商人狂哥絵図」より)
まさしくそれです。
固定の店舗を持たず、町民・市民が住むエリアを売り歩いていました。
だいたい、人によって行商をするエリアが決まっていたようですね。
その方がお客様とも顔なじみになって信頼関係も出来たのでしょう。
あるいは、寺社の門前などの人が多い場所や市に行って売るのです。
似て非なるもので、移動販売車があります。
これは行商とは呼ばれず、移動販売という呼び方をされています。
また、キッチンカーもありますね。
これも行商とは一般的には呼ばれません。
同様に小売店に商品を売る、卸売りも含みません。
行商は最近まであった!
なんだ、行商って江戸時代の話し!
と思われた方もいるでしょう。
違います。本当に最近まで残っていたのです。
下の写真は、成田市「広報なりた 平成14年6月15日号」の一つのページです。
成田から旬の野菜や卵などを東京に持っていって売り歩いていた歴史が書かれています。
000020870.pdf (city.narita.chiba.jp)
そして、この行商の方を乗せる専用の電車もありました。
京成電鉄では、行商列車という1編成すべて行商人用の列車も走らせていました。
行商の減少とともに行商列車は姿を消し、一般の列車の最後尾に行商用の車輛を1輌連結していました。
それも、2013年(平成25年)3月で姿を消しました。
意外と最近まで残っていたと思いませんか?
以下、日経新聞の記事です。(2013年4月18日)
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京成電鉄、行商列車を廃止 利用者減少で長い歴史に幕
京成電鉄は戦前からの歴史を持つ「行商専用車両」を3月いっぱいで廃止した。地元の新鮮な農産物をぎっしり背負った行商の人が東京方面に向かう姿は早朝恒例の風景だったが、高齢化とともに利用者が減少。「最近は多くても1日20人程度にとどまっていた」(京成電鉄)
【中略】
専用車両は1935年、津田沼―押上間で始まった。戦後は農家の主婦らが米や野菜を食糧不足の東京に運ぶ行商が盛んになり、同社は49年、佐倉―上野間で3両編成の専用列車を再開した。
乗車料金に加え荷物代を払う行商の人は電鉄会社にとってはお得意様。大きな荷物が一般乗客のじゃまにならないよう最盛期は専用列車を1日3往復走らせ、始発駅を成田に延ばした。
その後は利用者の減少に合わせて減便。82年からは普通列車に連結する「専用車両」となり、98年以降は1両のみの運行だった。
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東京という大消費地に近隣の農家などが直接売り歩いていたのです。
1982年までは「行商列車」と呼ばれた1編成全ての車両が行商のための列車もあったのですね。
その後も普通列車の最後尾に1輌「行商用」の車輌があったのです。
このように、京成電鉄ではつい最近までと言っていいほど行われていたのです。
ということで、本日はこれまで。
後半は次回ということで。
もし、最後まで読んで頂いた方がいらっしゃったなら、お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。
殺人的な暑さです。どうぞご自愛ください。
2022年6月28日(火)