先日、独立する前にいた会社の後輩と飲み会しました。
その中で百貨店の話しになり、そもそも三越自体が江戸時代は変革者だったと話をしました。
有名な話だと思っていたのですが初めて聞くとのこと。
そうなんだと思いました。
百貨店というと現在のイメージだけでとらえてしまうのですね。
店舗のこれまでを知ることによって、リアル店舗の「これから」を考える参考になるのにと思った次第です。
下の図は、私が感じている商業の盛衰です。
今回は、百貨店について見ていきたいと思います。
「現金掛け値なし」
17世紀の江戸時代に「越後屋呉服店」が江戸に店を構えました。
そして、1683年、「店前現銀掛け値なし」、「小裂いかほどにても売ります」の
スローガンを掲げます。
(株式会社三越伊勢丹ホールディングスのHPより)
三越のあゆみ|グループのあゆみ(〜2007年度)|事業内容|株式会社三越伊勢丹ホールディングス (imhds.co.jp)
いよゆる「ツケ払い」ですね。
呉服店が、顧客の家に商品を持参してその中から気に入った商品を買ってもらう。
あるいは、店舗でお客様から注文を聞き、後で商品をお客様宅に持っていくのです。
でも、商品代の回収は盆と年末の2回。
そうすると、
② お客様からの商品代金の回収が出来ない可能性(貸倒リスク)がある
ということになりますね。
ですから、商品の価格も高くせざるを得なかったのです。
① 店頭売り
② 現金払い
という商法で、安く商品を提供したのです。
江戸の町民からは大きな支持を得たのです。
加えて、着物1着分の織物の布地がトイレットペーパーのように丸められていました。
反物と言いますね。
以前はこの布の巻き物、1個(1反)単位で購入していました。
それを1反単位で無くても買えるようにしました。
これは大当たり!
つまり、事業スキームを大変換して成功したのです。
いい商品を欲しい分だけ安い価格で買えることは当たり前ではなかったのです。
デパートメントストア宣言
「越後屋呉服店」は「三井呉服店」を経て、明治になり、1904年「株式会社三越呉服店」へと組織変更しました。
そして、1905年(明治38年)正月に新聞紙上で、
「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント・ストアの一部を実現致すべく候」
とデパートメントストア宣言をしたのです。
当時の経営者がアメリカの視察などを参考にして変革を試みたのです。
(出典:石原武政・矢作敏行編『日本の流通100年』(有斐閣、2004年))
それまでは、店舗には畳が敷かれお客様は畳の上に座り店員が接客してました。
お客様からの要望を聞きそれに合致する商品を持って来て商談していたのです(座売り)。
加えて、店舗は1階のみで2階は奉公人の住まいだったそうです。
それを、
① 座売りから商品の陳列への転換
② お客様は陳列された商品から自由に選ぶ
② 呉服だけでなく、雑貨などの商品も扱う
などのアメリカにみられるような百貨店を志向していったのです。
1914年(大正3年)には、5階建ての新館が完成しました。
お客様にとって買い物だけが目的ではなく、ただ店内をぶらぶらすることも出来る様になったのです。
食堂での家族団欒なども目的の一つになっていきました。
「店=買い物の場」から、「憩いとときめきの場」に変わったのです。
それが現在の日本の百貨店の原型ではないでしょうか。
まとめ
ということで、三越百貨店の歴史を見てきました。
私たちは、現在の目の前に見えることしか感じられません。
だから百貨店のイメージも今の百貨店です。
でも、歴史を見てみると百貨店が出来るまでに大きな商売の手法が大きく変化してきたのです。
そして今、マルイをはじめ幾つかの百貨店が「売らない店舗」の導入を積極的に取組みはじめています。
「リアル店舗=商品を売る場所」からの変化が加速しています。
ネットでの広告宣伝費も多く要して、埋もれてしまう、
そんな中、商品のプロモーションの場としての機能も大きいです。
(私が撮った写真には三越が無かったので、伊勢丹で失礼します)
以前とは違って、消費対象が変化し、消費者自身も変化しています。
リアル店舗も何を目的として存在するのかが今後のリアル店舗を考える上で大切でしょう。
リアル店舗のこれからを考えるうえで、商業の歴史を知ることも大事ではないかと思います。
2022年6月22日